町の由来

本町の由来

(1)成立年代について

神橋を境にして西町(入町)、東町(出町)との呼び方は、何時頃からかはっきりしない。寛永十 八年(1641)以後と思われるとあり、この年、山内表辺の民家を御幸町辺に移した時に、西町も 東町同様に街並を整備した。西町の地域のうちで「山内五谷」のうち南谷、西谷、善女神谷は僧 坊の敷地として民家の建つを許さずとあった。応永年中(1400頃)光明院が断絶したとき、仏岩に あった浄光坊を善女神谷へ移し、寛永十七年(1640)仏岩の往生院の墓を妙道院その他に移し た。その時、善女神谷の浄光坊を綿打村に移して、浄光寺とした。このように社寺の整備を優先 し、計画が整ってから西町の区割整備に着手したと思われるとある。
まず、寛永十四年(1637)、初めて伶人20人を置き祭儀や法令の際の舞楽演奏に奉仕させた。 そして、彼らの住宅を東西両町に分散させ、そのうち四軒の住宅を善女神谷の西に与えた。これが「四軒町」の起りで、 その後人家も増したとある。「原町」は、四軒町の西に小さな原があり、妙道院の門前のような民家が並んだところ。「袋町」は、 読んで字のごとくに周囲が住宅に囲まれた袋地をそのまま町名にした。ここの人の多くは、日光物産の曲物業に従事していた。
「本町」は、沼尻から田母澤川までの間に、一直線に街並を作った。西町の中心街のような感がするとある。 余り長いので、上・中・下の三つに分けた。多くは商家であった。本町の西にこれと平行して「大工町」という町を作った。 社堂の造営に携わった大工の一群が集まったものと想像される。これも長いので、上・中・下の三つに分けた浄光寺の門前で、下大工町と平行して 「板挽町」ができた。これも造営に関係した大工業者の聚落と考えられる。浄光寺の下から大谷川に沿って神橋近くまでを「下河原」と呼んだ。 鳴虫山の麓、浄光寺の対岸の僅かの平地があり、ここに二十戸前後の人家ができて「向河原」と呼んだ。
明治三十一年(1896)原町、上本町、上大工町の土地を買収して、「田母澤御用邸」ができたので、これら三町の民家を善女神谷、西谷、南谷の地に移し、 ここに下河原の一部を加え、現在の「安川町」ができた。次に、昭和十七、八年(1942・43)にかけて、町制整理の際、「下河原」と「向河原」は、 「板挽町」に編入され、その他の町は、そのままで現在に至っている。
参照文献:『日光の故実と伝説』星野理一郎著

(2) 本町のその後について
碑  文  【町名改称之碑】
昭和三十七年(1962)住居表示に関する法律が公布され 日光市においても 昭和四十四年(1969) 三月一日をもって 西町七ケ町に住居表示が施行された すなわち 四軒町 袋町 中本町 下本町 を統合して本町とし 大工町 板挽町を統合して匠町に改めた 安川町はそのままであるが 田母沢 御用邸建設当時 原町 上本町 上大工町の住民が移住して出来た町名であり その歴史的変革 を我等住民あいはかりこの石に刻し 後世に伝えるものである。

この記念碑のような経緯で、四軒町、袋町、中本町、下本町の四か町が統合して「本町」となる。平成十八年(2006)三月 二十日、二市二町一村が合併して、新日光市が誕生するのに併せて、平成十六年(2004)三月には旧町名復活の運動が起きるが、 さまざまな問題から断念する。そこで、「住居表示」は、「本町」。「自治会の名称」のみを、公式には、四軒町は、「本町第一自治会」、 袋町は、「本町第二自治会」、中本町は、「本町第三自治会」、下本町は、「本町第四自治会」と呼んでいたが、これからは、呼称として 「四軒町」、「袋町」、「中本町」、「下本町」も使ってよいとすることが決まったが「四軒町」のみは、未だ使っていない。 きっと「本町」、「本町第一自治会」の名称の方が、使い心地がよいということなのだろう。


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