本町の若子神社

若子神社の拝殿
若子神社の本殿正面

若子神社の本殿正面右から
若子神社の本殿左裏から

若子神社
弘仁11年(820)日光を訪れた弘法大師空海は、滝尾神社を開き、次いでこの裏の寂 光の滝で修行した。夢の中で女神のお告げを受け、ここに祠を建てたと伝えられる。 室町時代には、「寂光寺」の七堂伽藍が立ち並び、釘念仏道場として繁栄した。釘念 仏のお札は、現在も輪王寺で受けることができる。明治以降「若子神社」と改められ た。祭神は下照姫命(したてるひめのみこと)。祭日は、10月30日。「若子神社」は、石 の鳥居をくぐり、百段ほどの石段を登りつめた高台に拝殿と本殿が建っている。もとは 「寂光寺」とか「寂光権現」といったが、明治の神仏分離で「若子神社」と改められた。
その後、火災が続き、明治17年(1884)の火災で焼失した。現在の社殿は、その3年後 に再建されたものである。毎月10日に月次祭、祭日の10月30日は例大祭として二荒 山神社の神官によって執り行われている。
参考文献:『もうひとつの日光を歩く』日光ふるさとボランティア編

寂光寺跡と池石
田母沢橋の手前、右側上流に向かって川沿いにつけられた車道をゆくと、2kmほどで寂光の滝に出る。その途中の道の左側に巨石があって、この石を池石と呼び、古くから知られた石である。石の上部に周囲2m、深さ30cmほどのくぼみがあって、いつもここに水がたまっているところ。この水が乾いてしまったことはないといわれ生石と呼ばれたが、後に池石となった。この水をかきまわすと必ず雨が降ると信じられていたともいう。池石の先、道が行き止ると、寂光の滝に出る。急斜面を落ちる一本滝である。昔はこのあたり寂光寺があって室町時代から江戸時代にかけて、庶民信仰の中心地として、滝尾参道のように栄えたところである。現在は「若子神社」と名を変え、昔の隆盛を偲ぶことはできないがそれでも木立の中には「常念仏堂」をはじめ、堂宇の礎石があちこちに残り、往時の規模を察することができる。ここには、釘念仏という信仰が盛んであったことがあり、その祖ともいうべき覚源上人の塔がある。釘念仏は、各地にも見られる信仰だが、死後に受ける地獄の苦痛を、念仏をとなえ、」信仰をあつくすることによって、軽減されるというもの。「人々死して七々日すくる日、しろき餅を四十九そのふるは、四十九のふしふしに打たるる釘を転して批餅にうたしめんとなり」(釘抜念仏縁起)というもので、黒地に白文字抜きの釘念仏のお礼を出していた。(現在は輪王寺で出している)
参考文献:『日光 社寺と史跡』沼尾正彦著

釘念仏の御札
覚源上人が閻魔大王から御札を受けている図


今は「基石」を遺すのみだが明治初期の寂光寺とか

参考文献:『日光の故実と伝説』星野理一郎著


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