町の由来(2) と あとがき

匠町の由来
(2) 大工町・板挽町のその後について
碑  文  【町名改称之碑】
昭和三十七年(1962)住居表示に関する法律が公布され 日光市においても 昭和四十四年(1669) 三月一日をもって 西町七ケ町に住居表示が施行された すなわち 四軒町 袋町 中本町 下本町 を統合して本町とし 大工町 板挽町を統合して匠町に改めた 安川町はそのままであるが 田母沢 御用邸建設当時 原町 上本町 上大工町の住民が移住して出来た町名であり その歴史的変革 を我等住民あいはかりこの石に刻し 後世に伝えるものである。
この記念碑のような経緯で、板挽町と大工町とが統合して「匠町」となる。その後、平成十八年(2006)三月 二十日、二市二町一村が合併して、新日光市が誕生するのに併せて、平成十六年(2004)三月に は旧町名復活の運動が起きるが、さまざまな問題から断念する。そこで、「住居表示」は、「匠町」。 「自治会の名称」のみを、公式には、匠町第一自治会、匠町第二自治会と匠町であるが、呼称として、 「大工町」「板挽町」も使うこととした。

(3) 弥生祭における西板について
弥生祭は、すっごく古い歴史があるらしい。二荒山神社のこの大祭は、四月十七日に行われる から「卯月祭」というべきを「弥生祭」というのは、昔は三月に行われていたからである。また、神 護景雲元年(767)に始まったというから随分古い歴史をもつ。この頃は、六月に行ったが、気候 が暑いので、弘仁十二年(821)から三月に行うことにした。それで、「三月会」とか「弥生祭」の名 がついた。
氏子が行う弥生祭の「付祭」の記録は、@文化八年(1811)・弘化二年(1845)年号記載のある以 前、神社お預け分当番町引継ぎ資料かA持回り当番町引継ぎ資料かに拠らないと分からないと 思うので、少々時間を要する。更に、西板については、調査が大変かもしれない。何かご存知の 方がいらっしゃいましたらご教授をお願いいたします。
メールアドレス(nikko_itahikityo@hotmail.co.jp)
言い伝えに拠れば、”東の「御幸」、西の「板挽」”といって、巾を利かせていたらしい。そこで、西 の板挽から「西板」という詞が生まれ、町印として、「西板」を使っている。更に、西町の家体順で は、常に、端を切り、他の六ヶ町は、当番町制を布き、この後に付いたと聞いている。現在の家 体順は、戦後(1945)の民主化の一例といえよう。
参考文献:日光の故実と伝説(著者:星野理一郎氏)


あ と が き

日光IT都市化研究所主催「WEBサイト(ホームページ)作成の基本講習」(H18.11/25・26)の受講い たしましたところ、講師をしてくださいました所長様の「ツボ」を押えた適切な御指導とユーモア 溢れる話術に引き込まれて、すっかり「WEBサイト(ホームページ)作成」にのめり込んでしまい ました。すると、構想だけは、ああしたい、こうしたいと思い浮かぶのですが、それを完成まで 持ち込む技術がありません。
そこから、夜討ち朝駆け、所長様には大変お世話になりました。いや、ご迷惑をお掛けしまし た。12/2・3には、イメージチェンジャー・カウンターの組込み、画像背景の透過処理・画像枠 の消去などなど。12/8・9・10には、延べ8〜9時間、所長様を始め、スタッフの皆様、ご指導あ りがとうございました。いや、ご指導というよりは、作成までして戴き、唯々「感謝!!」「感謝!!」で す。町内の皆様からも「すばらしい」とお褒めも戴きましたし、私自身も、家に帰ってから、新ペ ージを加え、ページ捲りを繰り返しましたので、大分理解が進みました。誠にありがとうござい ました。重ねて御礼申し上げます。
最後に、所長様、そして、スタッフの皆様のご健勝とご多幸、日光IT都市化研究所のますます のご発展をお祈りし、御礼の辞といたします。(H18.12.15記す)

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