本町のサムライ屋敷

サムライ屋敷
サムライ屋敷入口
サムライ屋敷1

サムライ屋敷2
サムライ屋敷3

サムライ屋敷(武家屋敷)
バス停「西参道」と「田母沢」の中間、国道の右側に金谷ホテルの武家屋敷がある。別名「サムライハウス」とも呼ばれる金谷ホテルの「記念 館」である。約270年前の建物で、垣根に囲まれ、一般民家と変わりないため、なかなかわかりにくいが、我が国の外人リゾートホテルの第一歩ともいえる記念すべき建 物である。明治6年(1873)6月、宣教師でヘボン式ローマ字の発案者、ヘボン博士夫妻が、この建物の2階で夏を過ごした。そして博士は、将来日光を訪れる外国人はきっと増 えるからと、金谷善一郎氏にホテルの経営をすすめた。それが金谷ホテル設立の切っ掛けとなり、明治25年(1892)に神橋近くの現在の場所に、ホテルが建設された。武家屋敷と 呼ばれるのは、木造2階建ての質素な建物が、江戸期の遺構をそのまま残しており、外人にはとりわけ武家(サムライ)のイメージを与えるためである。天井は低く、日中で も薄暗いタタミの部屋。ケヤキの太いはりや天井からつり下がる銅製の自在カギ、大きな鉄ビンなどそこには日本情緒があふれている。事実この家は、武家ならではの工 夫も凝らされていて、刀を抜こうにも天井が低くて振りかざせないとか、押入れに見えるフスマが抜け道だったり、家中逃げ道が考えられていたり、まったくの武家向きの構 築で、そこに武家の生活用具(こたつや食事の膳・絵画など)が、そのまま置かれていることから外人にとっては、日本ムード満点の鑑賞物である。日光を訪れた団体外人 客のほとんどが、ここを訪れているが、日本人の場合は、見学を遠慮してもらっていると記してあったが、『もうひとつの日光を歩く』日光ふるさとボランティア編の発行時 の平成8年(1996)と異なり、平成21年(2009)の現在は、一切見学を許していない。日光に外人用の「ホテル」を発祥させた、記念すべき建物であるから保存という意味からも 止むを得ないだろう。
参考文献:『もうひとつの日光を歩く』日光ふるさとボランティア編

金谷真一と父金谷善一郎
明治12年(1879)12月8日、日光生まれ。父善一郎氏は金谷9代目で、西町のこの屋敷に住んでいたが、ヘボン式ローマ字の発案者ヘボン博士を泊めたのが切っ掛けでホテル業を始める。リゾートホテルの先端を切って始められた「金谷ホテル」の起源である。真一氏が生まれたのは、金谷ホテルができて6年目である。真一氏の3才下の弟正造氏は、箱根宮ノ下の富士屋ホテル・山口家の養子となり、兄弟そろって日本のホテル創生期に活躍する。日本のホテルの歴史では、慶応3年(1867)東京築地に「ホテル館」、明治2年(1869)横浜に「クラブ・ホテル」、同3年(1870)東京築地に「精養軒」(2年後(1872)焼失)同6年(1873)6月「金谷ホテル」発足。10年(1877)上野に「精養軒」、11年(1878)箱根宮の下に「富士屋ホテル」とあり、現存するホテルでは金谷ホテルが最も古い。真一氏は、ホテル経営のかたわら国立公園の基礎づくりにも力を注ぎ、日光軌道線(昭和43年(1968)廃止)の設立に参画、山岳道路の改修陳情や自動車会社の創立など観光面に残した功績は大きい。昭和21年(1946)4月には日光観光協会長となり、戦後の日光の立て直しに努力した。昭和40年(1965)5月4日、日光市名誉市民に推戴されたが翌々年の昭和42年(1967)2月16日、87才の高齢で逝去した。
参考文献:『日光 社寺と史跡』沼尾正彦著


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